団塊の世代の部屋5

 

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1999121日水曜日  第99話  商工ローン

 いよいよ、今日から師走ですね。何とか11月も更新することができました。何時まで続くかやれるとこまでやってみようとここまで来ました。なんと、99話まで来ました。「誰か読んでくれる人いるのかなぁ…?マァいいか自分の気持ちだけでも書いてみよう!」とここまで来れたのも「読んでるよ!」と掲示板に書いてくれたりした皆さんの応援のお陰げと、一重に私の努力のたまものです。^_^;

 冗談はここまでにして、日産の社長なんか可愛いもので、もっともっとひどい奴らのことを書きたい。
 銀行の貸し渋りが問題になって、そのために公的資金を導入したのに、相変らず貸し渋りは無くならないようである。尤も、そんなことを期待できるような銀行でないことは当たり前ではないでしょうか。
 あれだけの金をつぎ込ませて、金利をゼロにして、国民に付けを払わせても責任一つ取ろうとしない経営者がのうのうとしている銀行がそんな殊勝なことをする訳は無いと見て良いのではないでしょうか。
 それどころか、未だに懲りずに、裏で商工ローンに金を流しているのですから何をかいわんやです。


 そこに、またまた「週刊東洋経済 1999.12.4. 風
 連帯保証人になるな!」が取り上げています。

 ……略
 商工ローン問題は銀行の貸し渋りと表裏で大きくなってきた。しつこい融資勧誘、事業継続が不能になるような高金利、連帯保証人として詐欺まがいの「根保証」を取られる。待ち受けるのは恐喝ともいえる厳しい取り立てである。こうした極悪非道はいつも放置される。
 ……以下略  (世民)

 どうですか、アレほどバブルで散々悪いことして、そのつけを国民の税金で払わせた奴らが、凝りもせず、同じことをやっているのです。日産の社長が居座るより何倍も悪い奴らがそのまま居直って、自らリスクを取らず、商工ローン業者に資金をながす。
 何でこんなことが許されるのだろうか。本当に日本人は人が良すぎるというか、大ばか者である。商工ローンの社長一人をスケープゴートにして、裏の悪い奴らは高いびき。何で暴動が起きないのか?情けない!!どうせ政治家や官僚に金が回っているんだろう。

2000415日土曜日修正

1999122日木曜日  第100話  警察

 何とか、100話に到達しました。たった100話ですけれど、「一体どうなるんだろう、マァいいかやって見よう」で始めて、ここまで来ました。自分では、結構満足しています。自分勝手なことばかり書いているのに、付き合ってくださった方にはお礼を言いたいと思います。書くことが無くなって、「どうしょう」とあせったときもありました。次は200話を目指して、ゆっくりやって行きたいと思いますので宜しければ付き合ってやってください。感想とか意見があれば、掲示板に書いてやってください。よろしくお願いします。

 今、神奈川県警や佐賀県警等全国の警察で不祥事がおきている。先日は、天声人語でも取り上げていましたね。何故こんなに不祥事が次から次へと起こるのでしょうか?
 これに関して私は一つの思い当ることがあります。それは、まだ香川で営業をやっていた時の事です。警察OBの顧問と香川県警へ行ったと気の事です。アポイントの前に少し時間があったのですが、顧問が「友達の息子がここに居るのでちょっと会っていこう」と言われました。そこで、一緒についてある課に訪問しました。
 ところがその息子さんという驚くほど若い人(後で歳を聞くと27歳でした)は、正面の机に座っていました。その前の席には、40、50歳のおじさんが何人も机をならべています。一瞬私は意味が飲み込めませんでした。その若い人は課長でした。何で?というのが私の感想です。
 後で顧問に聞いたところ、その人は東大卒の所謂キャリアだったのです。それまで、噂には聞いていましたがそういう場面にでくわしたことがありませんでした。それだけにその異様さに驚きました。どう見ても、あれは異常な世界です。「あれでたたき上げの40、50歳の人が仕事する気になるのかな?」と不思議に思いました。官公庁というものはあんなものなんだ。そしてあんな世界へ行かなくて良かったと思ったものです。
 噂に聞く税務署の20歳代の所長もあんなんだな…。キャリアというものを始めて見てショックだったのを今でも覚えています。「あれで仕事をする現場の人は偉いなあ!!私にはとても絶えられないだろうな、よくモラルが保たれるものだ、日本人というのはすごいもんだ」と変な感心したものです。
 でも、私の疑問はやっぱり当っていたと思います。ああいう世界でモラルが保たれるわけが無いと思います。確かに、発展途上国のように日本も維新後とかには必要悪だったのでしょうが、今の時代にはもう合わないのではないでしょうか。
 欧米では、今でもそういう世界があるようですが、生まれたときからそういう教育を受けているので最初からあきらめているそうです。フランスなんかの夏休み一ヵ月というのはそういう始めからエリート界には入れない労働者層が割り切って休むためだそうです。その代わりエリート層は夏休みなしで働くのだそうです。どちらが良いのかわかりませんが、少なくとも日本にはそういう風土は合わないと思いますし、そうあって欲しくないですね。
 大学卒業したての20歳代の人が人生経験豊かな人を管理することは無理でしょう。それだけに日本のキャリア制度は今度のような不祥事を起こす一つの原因になっていると思います。ちょっと飛躍していますかね?結構当っている面はあると思いますがね。
 あんな若いときから権力を持ち、下からチヤホヤされたら、誰だって、勘違いして、まともな神経の人間にはなかなかなれないのではないでしょうか?やはり実力で競争させるべきでしょう。現場の解らない上司に管理される組織のモラルが上がる事はまずないのではないでしょうか。

1999122日木曜日  第101話  内部告発

 最近の、警察の一連の不祥事は、内部告発だろうといわれている。一昔前には内部の恥は組織ぐるみで隠していた。内部告発することが、悪とされていたのである。しかしながら、本当の悪はどちらかと考えれば、内部告発は当たり前かもしれない。
 組織に飼われた社畜には考えられなかっただろうが、今では、組織の悪を悪として見れる人たちが増えたということだろう。これは、日本にとってはいいことだと思います。
 戦後の澱が溜まった日本の閉塞感を打ち破るには、まだまだ足りないくらいです。もっともっと、膿を出し切るべきである。戦後の教育の悪い所が目立っていますが、こういう良い所もあるのかもしれません。

 そんなことに『日本経済新聞 1999年(平成11年)11月30日(火曜日) 大機小機 改革に必要なフェアプレーの精神』が触れています。

 …略 ところが、近年多発する企業不祥事や談合の摘発をみると内部告発が当たり前になった。上原の涙は若者の抗議の表現であり、監督も次打席からは敬遠を強要できなかった。
  ……以下略(望)

 これは非常に考えさせられる。ようするに「主役は誰か?」ということではないだろうか。何処を向いて事を成すか?である。日本の野球は観客を忘れ、政治は国民を忘れ、企業は顧客を忘れて自分達の都合で仕事をしていると言うことである。これほど今の日本を表している事は無いような気がする。先日の第92話で触れた、「政府は子供の将来を念頭に」に通じるものである。
 何が一番大切であるかを忘れているから本当の仕事が見えないのである。野球は観客に政治は国民、企業は顧客に食べさせてもらっているのだ。そこを見ずに内部の都合だけで仕事をしていると、その時は良さそうに見えるかもしれないが、いずれ見放されるときが来る。気が付いたときはもう遅い、その時は土俵を去るときである。土俵ならまだ良いが、世界から見放されているだろう。その時、日本人よ何処へ行く。
 救いがあるとすれば、これからの時代の人達が今までの日本の悪弊に染まっていないことかもしれない。我々が考えている以上にサラッと日本を変えていくかも…。

2000415日土曜日修正

1999124日土曜日  第102話  低空飛行型人生

  戦前の物の無い時代に苦労して、その上戦争という体験をした、我々の親の世代は戦争後の民主主義という上から与えられた、体制の中で、迷いながらも、戦前の家父長制度を引きずりながら、戦後のベビーブーマーである我々を育てた。
 かろうじて、子供の時にひもじさや物不足を経験した。我々は産まれたときから民主主義にどっぷり使っていたが、まだ、戦前の古き良き時代の隣近所の付き合いのあった時代であった。子供たちは町内の大人達の目の中で育てられ、子供たちは集まって遊んだ。そこで、上下関係や物事の限度を学んだ。

 日付けは前後するが、若者気質で昨日の記事とも関連する面白いものが有りました。

 夕刊読売新聞 1999年(平成11年)11月29日(月曜日)座標軸 竹内靖雄 新型日本「一億総中流」社会の終わり

 ……略

 彼らは、もろもろのいやなことを回避し、気楽な「低空飛行型人生」を選ぶのである。彼らは自らの選択によって、今後新しいタイプの低所得階層を形成していくことになるであろう。
 ……以下略 (成蹊大学教授・経済学)

 昨日と同じく、我々団塊の世代の子供に当る世代の気質は大きく変わってきているということである。
  しかし我々の育てた子供たちは、産まれたときから物に不自由することも、ひもじさも殆ど経験していない。それが本文にある「
子供の頃から個室と自分専用のテレビをもち、潤沢な小遣いで好きなものを買いながら育ってきた世代の意識や価値観は、上昇志向でひたすらがんばってきた旧世代のそれとはまったく違う。」ということである。
 ここで言われているように、その子供たちの新しい価値観が良いように働いてくれれば良いが、彼らに残したこのひどい日本を彼らはどう感じ、どう引き継いで行くのだろうか?
 まだまだ、何とか今の日本をまともな物にして、渡したい物である。せめて怨まれないように。尤も、彼らは期待していないかもしれないが…。

2000/4/2修正

1999125日日曜日  第103話  IT革命

  サンデープロジェクト(2000年4月16日)に石原都知事が出演していた。例の、三国人発言のことであったが、それは別のこととして、面白い事を言っていました。
 それは、東京都の
PC装備率が日本の都道府県の中で48番目だというのである。殆ど、最後である。そして昔のシステムを使っているので、今年の中央省庁のハッカー騒ぎの時、知事が「うちは大丈夫か?」と聞くと、「大丈夫です。こんな古いシステム使ってるところありませんので」と答えたという、笑い話のような話があったそうである。
 当然、
LANとかインターネットなんてものは無いので、出先から書類を運んでくるそうである。知事が、冗談のように、「大丈夫人が一杯いるから」と言っていたのが皮肉っぽくて良かったです。
 日本を象徴する大都市東京の中身がこれでは、
IT革命がどうのこうのと言う以前の問題ですね。

 それと正反対の事が1999年(平成11年)11月30日(火曜日)   日経流通新聞 暖流寒流にありました。都内の、外資系の会社のことだったと思います。

 必要な書類はすべてパソコンに入っているし、入ってない情報も社内のホームページやインターネットにより外部から調達する。

 どうです、これだけの差があるのです。要するに情報がオープン化されているかどうかの差だと思います。そこが、これからの経営は、この情報のオープン化が出来ているかどうかで大きな差が出てくるはずです。勿論、コストの問題も大きいですが。
 日本ではこのペーパレス化はまだまだなのではないだろうか?他は分りませんが、少なくとも、私の勤務する会社では、全くと言っていいほど、遅れています。販売システムはコンピュータ化されています。それも全国の営業所をISDNで自社専属ネットで組んでいます。
 そこまでは良いのですが、折角のネットでメールを使おうとしないのです。ソフトは組み込まれていますが、それを社員に、使わせないのです。そのくせ書類は山のように来ます。何しろ東京本社は、その近隣の会社の中でダントツのコピー使用量といわれた(確認はしていませんが、ありそうな話です)らしいのです。その上、全国の拠点長を集めたり、営業会議をしたりするのです。言っちゃ悪いがメール一つで済む程度の会議です。人を虐めて辞めさせる暇があればメールを使うことでそのくらいの費用は十分まかなえそうです。
 余り言うと、首が飛びそうなので、この辺にしておきます。この位が、日本の企業の現状じゃないのでしょうか。

そこまでひどくないかな?

2000416日日曜日修正

1999126日月曜日  第104話  女性

 第75話第76話でも触れたように、これからの企業は女性と、高年齢層をいかに取りこんで行くかが焦眉の急であろう。それを出来ない企業は、人員の確保すら出来ず、ジリ貧になっていくしかないはずである。
 ただでさえ優秀な女性の能力を、男の嫉妬だけで有効利用しないのは失礼であるし、大きな損失である。
 私の勤める会社でも、今はやりの通信教育をしているのは、大抵女性である。男は、毎日の仕事に追われ、退社後や休みとなればパチンコや賭け事にうつつを抜かしている。こんなことでは、何年か後の差は大きなものになってしまうだろう。活き活きしている女性ばかりが目立つのは気のせいだろうか?

 そんな現状を「日刊工業新聞 1999年(平成11年) 12月1日(水曜日)産業春秋」が取り上げている。

   必然的に寸暇を惜しんで、新聞を読む女性は増えていく。しかし、その一方で、漫画を読みふける中年男性が、車内で目立つのは、なぜだろう。

 いよいよ女性の時代到来か。しかし米国と日本の差は余りに大きい。その米国にしろ本文にあったが、「大企業の最高責任者(CEO)にすら、次々と女性が就任し、話題になっている。」と言う風に話題になるようではまだまだである。それが当たり前になると話題にはならないはずである。しかし今の時点でそこまで求めるのは酷かもしれない。いずれにしても日本とは大違いである。
 折角人類の半分いる女性の能力を活かさない手はない。以前も触れたように大学まで男よりズット優秀な成績で卒業するような女性を生かさないのは余りにももったいない。企業で能力を発揮する女性、家庭で活きる男性があっても良いはずである。ようするに。適材適所である。これができる企業とできない所の差はどんどん開いてくるはずである。

あなたの会社はどうですか?

2000416日日曜日修正

1999127日火曜日  第105話  武士道

 日本人は何時からこんなに酷くなったのでしょう。明治維新の頃の日本人はもっとイキイキとしていたように見えるし、今のように為政者も、自分のことしか考えるのではなく日本の国をどうするかと考えていたように思うのは考え過ぎだろうか?
 明治、大正、昭和と国が栄えてくるにつれて人間が悪くなってきたのだろうか。
 極めつけは、戦後の昭和、それも30年代以後のような気がする。なんだか自分が育ってきた時代と一致していやだが、これは間違いないように思います。
 即ち、敗戦によって上から与えられた、民主主義をはきちがえて昔の道徳感まで無くしてしまって、経済発展至上主義に走ってしまった結果ではないでしょうか。
 儲ければすべて、金儲けのできないものは人間として下等であるかのような様相をきたしてきたのである。そして今になって、何かが違うと思い始めたような気がします。大事な心を経済発展の見かえりとして何処かに忘れてきたのではないか?

 そんな気持ちにこたえるるような、面白い記事がありました。例によって、週刊東洋経済1999.12.4です。書評の中です。日本人論『いま「武士道」を読む』―21世紀の日本人へ―志村史夫 著日本の矯正は゛サムライ"に託せ

 ……略
  武士道の根幹は「三民の模範」であり、これは、イギリスの「ノーブレス・オブリージ」(地位の高い人ほど重い義務と責任を負う)という指導者の生き方と通低している。
 法政大学教授 川成 洋

 どうです、中々面白そうでしょう。すべて賛成とはいかないにしても、「真のエーリート」、つまり「サムライ」と言うのは良いかもしれない。先日も触れた、大学の成績だけのキャリアよりはズット良い。
 昔の、武士は、士農工商と身分は上であったが、収入は少なく生活は苦しかったようである。商人に借金していたものも多かったようである。大半の藩自体が財政破たんして、札差からの借金で首が回らなかった位であるから。
 ところが、彼らは、国を治めているという気概だけは持っていたようである。子供の頃からそういう育てられ方をしたのである。「武士は食わねど高楊枝」という言葉があるくらい気位が高かったのである。
 封建制度に戻って欲しくはありませんが、為政者は、そのくらいの気概を持って欲しいということである。

2000416日日曜日修正

1999128日水曜日第  106話  他人のメシ

 第49話第50話第51話で中途採用に触れたように、これからの企業で中途採用を積極的に活かせない企業は、女性や中高年を活かせない企業と同じように将来は無いと思います。それは何故か?
 それは、今までの企業は、同じような新卒の人材を採用し、同じように企業に都合の良いように育ててきたからである。それも仕事を見るので無く、上司の言うことを素直に、何の疑いも無く聞くような従業員を良しとする見方をしてきたためである。そこには、新しい発想が生まれてくるような活気は育たない。所謂、出る杭は打たれるである。

 今回、佐高信の中坊さんとの本「突破力」を探しに行ったが結局みつけることができず、代わりに徳間文庫「ビジネスマン一日一話」佐高信を買ってきました。
 1990年の本ですから、10年前の初版です。まだまだ今も充分通用することばかりです。その中に、「素野福次郎のハイブリッド経営」として、丁度、中途採用にふれたものがありました。

   「いや、子飼いだけでは企業は育ちません。子飼いというのはなかなか育たないものなんです。両方に甘さがある。だから、一度は他人のメシを食った方がいいんです。他人のメシを食ったことのある人は、コメの硬さをしっていますからね」 

 これが日本の企業の当たり前になるともっと人材の流動性が高まるはずである。ところがこれが日本では中々受け入れられない。第95話から連続で3話とりあげた人材の流動性を高めるためにも「いや、子飼いだけでは企業は育ちません。子飼いというのはなかなか育たないものなんです。両方に甘さがある。だから、一度は他人のメシを食った方がいいんです。他人のメシを食ったことのある人は、コメの硬さをしっていますからね」 という素野氏の言葉を日本の経営者に噛み締めてもらいたい。
 私が香川の営業所でいたときこれを人事に申請したが、丁度その頃から、何をトチ狂ったのか、これからは生え抜きしか採らないなどと言い出し、それから今日まで、途中入社を禁止してしまった。それからのこの会社の人員不足は目を覆うばかりである。そのため末端では、サービス低下を来たし、顧客の信用を失いシェアを落としていった。それでも未だにそれに気がつかないようである。
 折角、
他人のメシを食ったことのある人を活かすチャンスをみすみす逃して、業績落とした責任をだれも取ろうとしない。
 オット!又、話が飛んでしまいました。ゴメンナサイ!!

2000416日日曜日修正

19991211日土曜日  第107話  若者気質

 最近の若い人を見ると、昔の日本人の気質とは随分違うように思える。チョット時期は違いますが、高校野球を見ていて思ったのです。非常にのびのびとやっていることです。どうも、悲壮感とかあがるというのが見うけられないような気がするのです。
 例えば、あの甲子園で大観衆の中での試合といえば、地に足が着かず、何をやっているか分からなくて当たり前だと思うのですが、どうも、そんな様子も無く、伸び伸びとやっています。
 それだけでも不思議なんですが、優勝した後、宿舎でのインタビューの時などの、はしゃぎ振りや話振りをみると人種が違ってきたように感じます。
 昔の子供にあんなに度胸のいい子供はいなかったように思います。それこそ、インタビューでもコチコチになっていたものです。 
 これは育ち方の違いとしか言えないような気がします。

 リンクでお世話になっているYajiさんからの情報ですが、丁度、101第102話でも触れた現代若者気質に関連する興味ある話が『朝日新聞《天声人語》1999年12月6日』にありました。

  …中略
 何不自由なく育った連中だから逆境には弱いはず、と考えるのは早合点らしい。彼らは飢えさえしなければ動かない。…以下略

   これはいいですね。何かモヤモヤした「今までの戦後の日本の進んできた道が、何処か違っているんじゃないか」という漠然とした思いをはっきりと認識させてくれたような気がします。
 本文の中にあったが、「
未来のために、いまを頑張ろう。永遠の繁栄と成長のために。これが近代の論理であり、資本主義の精神だった。学校と会社は、人びとにそれをたたき込む装置だったともいえる。けれども環境や資源の限界がはっきりした現在、これまでのような生き方をなお続けるなら、それこそ人類の未来はない。」というこの言葉は今までの日本がやってきた事をちゃんと否定してくれている。これが今までは無かった。ここまではっきりと言ってくれると、成る程やっぱりおかしかったんだと納得できる。そしてトドメは、『「学校と会社が万能の時代」が終わりつつあると予感している。』である。これこそ我々日本人共通の問題と認識すべきことである。
 この認識を出発点として、「これからの日本をどうするか」を考えていけば、今の閉塞した日本を少しは変えて行けるのではないだろうか?今までの体制にしがみついて、その間違いを受け入れようとしないのでは、いよいよ救いようの無い無限地獄に陥ってしまうだろう。
 こんな認識を持った人がいるということは日本もまだまだ捨てたものじゃないのかもしれない。しかしこう言う声は欧米では兎も角、日本では無視されるような気がします。

その時こそ日本は世界の笑い者でしょう!

2000416日日曜日修正

19991212日日曜日  第108話  内部告発

 今朝のニュースで神奈川県警の処分が発表されたことをやっていた。警察本部長の起訴、キャリアの懲戒免職処分はともに警察史上初めてだそうである。

 第100話で触れたように、やはり、キャリアの人事に問題ありの声にやっと重い腰があがったというところだろう。誰が考えてもおかしい制度にやっと、メスがはいったのだが、これが又、官僚や政治家に、うやむやにされて、元の木阿弥にならないように、そして他の省庁にも広げて行けるかどうかを監視しなければならない。
 それはやはり我々国民一人一人の自覚にかかっている。一番気をつけなければならないのは、この処分ですべてが終わったとして後をうやむやにさせないことである。まだまだこれは氷山の一部であるはずだ。
 こういった不祥事が、今、突然起きたわけでは無いはずである。過去にもっともっと多くのことが表ざたにならずに闇に葬られ、表面を湖塗されてきたことは疑いが無い。
 それがこのように表に現れるようになったのは、
第101話で取り上げた本文にあったのだが、「二十年以上前、米国の反公害運動の旗手、ラルフ・ネーダーが来日し、「企業の悪を暴け」と訴えたことを思い出す。その当時は日本で公然たる内部告発などという意地汚いことは起こり得ないと思ったものだ。
 ところが、近年多発する企業不祥事や談合の摘発をみると内部告発が当たり前になった
」というフェアプレイを重んじる風潮があたりまえになりつつあることである。これが意地汚いなどという捕らえ方でなく国民の義務であるくらいになれば、不正というものが少なくなって行くだろう。

少しはいい方向に向かっているのかな……?

19991213日月曜日  第109話  屁理屈

 営業を長年やっていますと面白い原則があることに気がつきます。それは、本当に真剣に仕事に取り組んでいない者ほど、言い訳が上手いということである。
 その言い訳を聞いていると、その商談が上手く行かない訳をとうとうと述べます。これなら誰がやっても成功しないだろうという理由を見事にあげます。それは見事ですから、うっかりしていると、成る程と、納得させられます。
 そこで、出来ないことを並べる前にどういう風に当ってみたかと聞いてみると、そういう人に限って相手に真剣に当っていないのが分かります。
 それじゃあ、どうやって攻めるかと言う発想はないようです。出来ない理由というのは自分を納得させる為に挙げているのであって、攻略する為の方策を考えることはしないのです。
 確かに、その方が楽なのです。しかし、仕事を成し遂げた時の喜びを得ることは無いでしょう。
 官僚を見ているとそんなことを思い出しました。

 そんな官僚について、次回から取り上げるつもりの「突破力」の中に「世界に通用しない日本官僚の理屈」として、非常に面白いところがあるので先に取り上げたい。次から登場する京大教授佐和隆光さんの論である。

 

 佐和  ――よく日本の常識は世界の非常識とかいいますが、日本の官僚たちの理屈は、世界に持っていけば一片のへ理屈にすぎないからです。  ……以下略

 成る程、よく官僚という者を説明してくれている。自分に都合の良い結論を先に出して、それに屁理屈をつけるのが官僚とはよくも言ったりである。そしてそれの優秀なのが東大法学部出身とは。この佐和教授も佐高さんに負けず劣らずズバリと本質を教えてくれる。
 国民が主体でなく、自分達の管轄の利益が主体では、日本が良くなる訳はない。視線が完全に世界の理屈からズレているのだから世界中からも馬鹿にされるはずである。
 やはりこの体制は時代に合わなくなっているのだから、早く壊さないと益々、日本の未来は無くなってしまう。 

 最後にもう一つ痛烈な言葉をとりあげます。「突破力」の締めくくりの言葉です。

 佐和 ―― 「俺はなんでもできる」などと勘違いして、それ以外のことに口を出すから行政がおかしくなると思うんです。

2000416日日曜日修正

19991214日火曜日  第110話  突破力

 バブルの時、日本は、みんなが浮かれていた。アメリカには、もう教わることは無いと言って、日本の製造業のやり方が世界の見本のように思ったものである。
 アメリカの不動産を買いあさったのもこの頃であった。アメリカの象徴と言われた、ニューヨークの広場を買ったのもそうだった。
 金儲けの出来ない奴は、バカ者扱いされたものである。銀行が日本経済を無茶苦茶にしてしまった時である。
 ところが、バブルが弾けた後の日本の落ち込み方はどうだろう。何もかも、自信を無くしたように元気が無い。夢から覚めたら、現実は、言われていたように世界一でもなんでも無かったのである。
 バブルの付けで倒産が増え、企業は膨れ上がった事業を縮小する為に、リストラなんてものがはやり出した。先行きが見えなくなって、日本中が閉塞感に陥ってしまった。
 それ以来、ズット閉塞感に捉えられたままである。一体、日本はどうしたのだろう。

 そんな現状をどう打破するかに言及した、「突破力」やっと見つけました。出張の合間、時間待ちのJR徳島駅デパートでした。何となく「あるかな?」と入った本屋になんと『中坊公平の「人間力」』と一緒にありました。当然2冊とも購入。ヤッパリ面白い。沢山取り上げたいところがあります。まず第1段として、最近私がよく触れている今の日本に関する興味深いところを二人と京大教授佐和隆光さんとの対談から。

 中坊公平 突破力 佐高信  徳間書店 第六章 日本の閉塞状況をいかにして打破するか 日本の閉塞状況はどこから生まれたのか

 ……略

 佐和  普通、人間は何か目標を掲げて頑張って居るときは、わりに充実感があって、ハッピーになる。ところが達成されてしまうと、何やらむなしい思いになる。 

 成る程、これは、確かにそうだろう。こういう風に分析してもらうと分りやすい。何かモヤモヤしたものが少し晴れてきたような気がする。バブルの頃は日本中が日本が一番であると浮かれていた。自分の国が世界一と言われて嬉しくない者はあまりいないのではないだろうか。政治は相変らず混迷していたが。

 しかし、国全体はそうであるが、一人一人は、生活面で世界一という達成感は無かったと思う。所謂中流とおもっている庶民は相変らず生活に追われている感覚が大半であるような気がする。それは、やはり社会資本が充実していないからである。公共費や物価は世界でも有数の高さである。可処分所得は一番ではない。生活に世界一の日本の実感が無いのである。一番一番と言われてもむなしさを感じていたのは私だけではなかったと思います。

2000417日月曜日修正

19991215日水曜日  第111話  突破力 司法

 権利を行使するには、義務や責任が伴う。何でもお上に頼る方が、ある意味楽な面がある。たとえば、日本のサラリーマンの税金が最たるものである。源泉徴収は、収入を全部つかまれているが、納税のわずらわしさからは開放されている。その楽さに甘えているから、税金の使い道に無頓着である。
 要するに義務の手続きを放棄しているので、不透明な税金の使途にも無関心になってしまうのではないだろうか。その点アメリカでは税金は自分で申告しなければならない。
 余談だかパソコンの浸透の一つの原因でもあると言う。自分で苦労して義務を果たすから、税金の使い道にも文句の一つも言いたくなるし、監視する気持ちにもなるだろう。
国民が責任を果たしているのだから、その国民のために政治家や官僚も責任を果たす義務があると監視するのが当然と考えるのではないか。

 そんなことに、「中坊公平 突破力 佐高信 司法の役割が弱いことが問題」が触れている。

  中坊 ―― 略
    これからは、われわれ国民の一人ひとりが主人公として、法をどのように利用するのかという発想から物事を考えて行かなければならないと思います。

 この中坊さんが本文の中で、「社会を透明化させるというその第一歩のところを怠ってきた」と言う言葉が、わが国の一番の問題点を衝いていると思う。長い物に巻かれろとか、清濁併せ呑むとか為政者に都合のよい言葉で物事を、うやむや,つまり不透明にしてきたのである。
 それは又、甘えの構造でもある。要するに、面倒くさいことにかかわりたくないという気持ちが、義務を放棄して、権利を任せたものにいい様に利用されることになったのである。
 権利を主張するなら、義務を行使しなければならないのである。それが即ち「
国民の一人ひとりが主人公として、法をどのように利用するのかという発想から物事を考えて行かなければならない」ということではないだろうか。
 残念ながら日本にはそれが無い。即ち、
第101話第108話でも触れた、フェアプレイの精神が無いのである。

19991216日木曜日  第112話  突破力 教育

 日本の戦後の義務教育とは何だったんでしょう。良く戦中派の人は、戦時中に教科書を墨で消すことからやらされたといっていました。そして戦争が終わるや、今までと、180度違った事を先生が言い出したといいます。
 要するに、教える方にも、これというきちっとした主義がなかったと言うことでしょう。悪く言えば、上からの命令にそって教えていただけと言うことだろう。
 だから、我々戦後世代を教える時にも、アメリカに与えてもらった民主主義だから、教える方もまだ完全に把握できていなかったのではないでしょうか?試行錯誤でやっているときに、今度は、経済成長第一の時代になり、いかに企業に都合の言い人間を育てるかになっていったのではないでしょうか。
 そして、大学進学が目的のようになり、テストで差をつけるための教育になっていったのではないでしょうか。そのためには、テストになりやすい問題、点数をつけやすい問題ということになり、何の意味も無い暗記だけの勉強になったのでしょう。
 だから、本来、何のために勉強するかの視点が段々抜け落ち、すべての目標が点数を数えやすい方向に行ったように思います。チョット考え過ぎですかね。
 しかしながら、学校で勉強したことが実社会で役に立ったことは余り無かったような気がします。それよりは、ソロバンをやっていたら良かったとか、英会話をやっていたら良かったか、ピアノの一つも弾けたら良いのにとか思ったことのほうが多かったです。
 どちらかと言えば、社会人になってからのほうが毎日勉強だったような気がします。 そんな役にも立たないことの成績で人生が決められてしまうのですからたまりません。大学なんか出ていなくても、立派な人は沢山います。
 本当の人間の中身を見て、その人を判断するような社会でなければならないと思いますが、学歴や、地位や、金持ちかどうかだけで人の良し悪しを判断する上っ面だけの社会になってしまったのが今の日本のような気がします。それが、今の日本の閉塞感にも通じるのではないでしょうか。
 要するに、本物の人間がいないと言うことだと思います。

 この閉塞感をどう打破するかについて、佐和さんがやはり日本のシステムをとり挙げて解かりやすく述べている。

ポスト工業化社会への変革期だから中坊公平が求められる

 …略

 そういうときに、中坊さんのような方が監視人として、あるいは実際に改革を推し進める主役の一人としてどうしても必要なんだと思いますね。

 要するに、今まで色々と取り上げてきたことの集大成と言って良いのではないだろうか。戦後日本が国を挙げて勧めてきたシステムが時代に合わなくなったということである。
 特に教育についての「
あれはソフトウェアの才能を全部摘み取る教育です。たとえば歴史の年代や人の名前を徹底的に覚えさせる。そして大学に入ってその類の知識がはがれていくと、後には何も残らない。本来、歴史はなんのために勉強するかといえば、それは歴史的なものの見方、あるいは考え方というものを身につけさせるためではないでしょうか」という件は目を覚まされた思いです。
 このあと略しましたが、理科の試験をすると日本の子供は世界で上位三位にはいるが、三十歳前後で自然科学のテストをすると、
OECD(経済協力開発機構)のなかで後ろから二番目だそうである。その上、TOEFLという英語の試験の平均点もモンゴルに次いで下から二番目だそうである。
 何という現実でしょう。単にテストの点を取るための記憶力の競争をさせているだけなのでしょう。自分で考え自分で行動するという生きていくために必要な勉強はなにもしてないのです。企業にとって都合のいい社畜に育てているのです。

 だからこそ自分の考えで今までの規制の社会のしがらみを打ち破ってきた中坊さんのような人が求められているのでしょう。日本人もこのままではいけない何とかしなくちゃとは思っている証拠でしょう。

2000417日月曜日修正

19991216日木曜日  第113話  ものを言う

  私の、今のような体制に反発する性格はどうも学生時代からあったようです。それは何故かと言うと、丁度八年前に、大阪に転勤できた時、偶然、大学のクラブ(軟式テニス)の同窓会があったのですが、その時、当時の監督さんから、「お前は野党だからな」と言われたのです。
 当時は、体育会の監督さんといえば天皇もおなじです。逆らう人なんていなかったものですが、田舎もんで何にも知らない私は、監督に文句を言ったらしいのです。それを覚えていてそう言ったようです。
 勿論、クラブは3年のときに辞めています。だから、社会に出ても同じ事をやっているのはその頃からの性格と言うことです。普通、こういう性格の人間は体育会には入らないようですね。当時から進路が間違っていたのかもしれません。
 人間成長しないんですね!尤も、これは私だけか!!

 そんなことを思い出させる面白いものがあります。

ものを言う人間は潰される

 佐高 ――  要するに、ハッキリものを言う人は潰されます。

 全くイヤな社会ですね。違った物を尊重する社会と排除する社会。この差は大きい。確かに、統括するのには都合の良い方法なんでしょう。しかし、こういう教育で育てられた人間には、創造性というものは身につかない。言われた事は、従順に従うが、それ以上の創意工夫はない。それでは発展がない。いずれ行き詰まることになる。
 あらゆる意見をもったものが、意見をぶつけ合い創意工夫をすることにより、新しい物が生まれてくるのではないだろうか。個性の無い同質の人間ばかり集めても、ブレイクスルーは起こらない。この閉塞感を打ち破ることは、、今までの枠の中から飛び出せない者には無理である。
 今までにない発想の持ち主を尊重し、育てなければならない。

2000417日月曜日修正

19991218日土曜日  第114話  大蔵省

 主権を政治家や官僚にまかしてしまって国民がその権利を放棄したのが今の日本の閉塞感の原因ではないだろうか。

 ここから、国民主権という中坊さんの持論を続けて取り上げて行きます。

 大蔵省の専横が経済を悪くしている

 これは第111話、「司法の役割が弱いことが問題」のときに私が取り上げたことそのものである。
 国民も自分達の権利を主張するためには人任せの傍観者でなく積極的に義務を果たす必要がある。一番簡単なのが選挙で自分の意思を行使する事だと思います。

19991219日日曜日  第115話  やってもムダ

 営業活動の経験を以前書きましたが、営業の一番の敵は自分です。出来る出来ないは自分が決めているのです。相手との交渉に入る前に、「ここは駄目だろうな!」とじぶんできめているのです。特に、相手が大きいとなると、出来ない理由を一生懸命自分で考えています。そして相手がそのように出てくると「やっぱりそうだった」納得しているのです。
 そんな最初から負け犬の営業に、相手が乗ってくるわけはありません。ところが、こちらが絶対成約できると思っていくと、相手が何を言おうと気になりません。「どちらにしたって、いずれは成約できるのですから」と思っていますから、迫力が違います。お客さんは逃げられなくなるのです。面白いもんです。
 ですから、私は営業にはできるだけ大きなところをターゲットにするように言います。何故かというと、大きい所ほど、他者の営業も怖がって攻撃してないのです。だからなまじっか小さなところを攻めるより楽なのです。そんな考えに同調してくれる考えがありました。

 国民主権についての考えで、『中坊公平 突破力 佐高信 「やってもムダ」という意識を変えろ』の中にありました。

 中坊 …略 

 やったってだめだという意識が本当にだめにしてしまっているのであって、あえて挑戦するという姿勢が必要なのです。……中略

 「われわれは自分の持っている権利を事実上浪費している結果になっているのではないでしょうか。」と言う言葉は所謂お上まかせということである。
 そのくせ、政治家を使って、地域や、団体、企業の利益を追求しようとする。自分達で政治家を本来の仕事でなく自分達の利益のために利用するから、政治家もどんどん悪くなっていく。要するに、全ての責任は、我々国民の利己主義にあるのではないか。
 この国をよくしようと思うなら、自分の利益ばかりを主張するので無く何が本当に必要なのかを考え、その考えを国政にとどかせるために本当の政治家を育てるべきである。自分達の利益のために政治家を利用しようなんて考えは絶対にやめなければならない。
 それで初めて、「
国民は世論をもっと政治に直結させる機会を作る必要があるのではないでしょうか」という言葉もいきるのではないだろうか。

2000418日火曜日修正

19991220月日曜日  第116話  お上頼み

 何かというと、議員さん頼み。市町村会議員から国会議員まで、兎に角、利用しなけりゃ損だというのが日本人の感覚。
 選挙応援といえば、当選した後の余禄目的。中には、選挙期間中人員を提供するような会社単位での手伝いも跡を絶たず。
 皆、後で利用することしか考えていない。こんなレベルの低い選挙が日本の現実です。いい議員とは、地元に利益をもたらす人なんです。
 だから議員も、地元対策が一番になります。国会議員まで国のことは関係無い兎に角地元が大事。冠婚葬祭から、公共工事を地元へ取ってくることが仕事。それが出来ない議員は次の選挙で当選が難しい。
 だから、大志を抱いて政治家になった人も、現実に流されて仕事が出来なくなり段々選挙民に迎合した活動をするようになる。何とも可哀想な話です。

 そんな実情を、住専処理に取り組んできた中坊さんが、『「中坊公平 突破力 佐高信 」のなかで、「お上頼み」という病気の蔓延』として言及しています。 

 中坊 …略 私がかねがね申し上げているように、国民一人ひとりの自立あるいは国民主権が定着せずに相変らず「お上頼み」であるという、わが国全体の大きな問題の一部が露呈しているのにすぎません。

 ここまで中坊さんの国民主権に対する考えをとりあげてきました。中坊さんは一人ひとりが成長する必要があると心の底から叫んでいるのではないでしょうか。我々国民一人ひとりのレベルの低さが、この国をダメにしているのです。
 政治家が悪いのも、官僚が悪いのも、企業が悪いのもだれの責任でもない、我々一人ひとりの責任なのです。
 それが昨日とりあげたなかにあった、「
やったってだめだという意識が本当にだめにしてしまっているのであって、あえて挑戦するという姿勢が必要なのです」ということなのではないでしょうか。自分達でやるしかないのです。

2000419日水曜日修正

19991221日火曜日  第117話  パブリック

 「自分さえ良ければ」という考え方を、日本人の大半が持つようになったのは何時頃からなのでしょうか? 
 所詮、人間なんてそんなものといえば、そうかもしれませんが、恥の文化と言われていた日本人とはもう少し奥ゆかしさとか、他人をおもんぱかるとかの情緒があったような気がします。
 俺が、俺がの自己中心的考え方になったのは、やはり、戦後の経済成長期と時を同じくしていると考えるのが自然かもしれない。物質的豊かさを手に入れるのと反比例するように心を失って行ったように思います。
 それは何故でしょう。一度味わった蜜の味は、人間をとどまることを知らない欲望の虜にしてしまったのでしょうか。一旦、手に入れた贅沢によって上ばかりを見て、限度を知ると言うことがなくなってしまったのでしょう。
 それは、他人を思いやる心をなくしてしまったことに通じるように思います。

 そんな現代人が忘れてしまった、他人を思いやる心に通じるものが、もう一冊の中坊公平・佐高信の共著『中坊公平の「人間力」 中坊公平・佐高信 徳間書店』のあとがきの中にあります。

   私はこの住宅金融債権管理機構では月給を貰っていません。なぜ給料も貰わずにそんなきつい仕事をするのかと聞かれれば、私は「パブリック」に奉仕するということをせめて口で言うだけではなく、実践することが大事だと考えているからです。……以下略


  このあとがきに、中坊さんの考えの殆どが表されているような気がします。要するに、今までの社会批判は私もそうであるように、政治家とか官僚の批判になりがちですが、中坊さんの考えが違うのは、一人ひとりの人間としてのあり方を取り上げていることです。他人を批判するのでなく、そうなった原因は我々一人ひとりに或るのだと言う捕らえ方ではないかと思います。これは今の日本人にとって痛烈な指摘だと思います。

 それが「エゴのゴリ押しが横行していますが、それは権利意識ばかりが肥大化してしまい、人のために働くとか、皆のために何かをやるという意識がなくなってしまったところに問題があると考えています」とか、「エゴの集団と化した我が国は必ず滅亡の道を邁進することになると思うのです。」や「世界の全人類、あるいは一人の人間として、もう一度物事を考え直し、そのなかから人様のことを考えるような社会を作ること、それこそが現在の閉塞感、殺伐とした風潮をなくす唯一の方策であると考えています。」 と言う言葉の中に表れているのではないでしょうか。今や全く正反対の自分のことしか考えない人間であふれている日本人にとって非常に耳の痛い言葉です。

 「私はこの住宅金融債権管理機構では月給を貰っていません」から誰かを思い出しませんか?
 そうです
第14で取り上げた石田禮助氏です。ヤッパリすごい人は似てるんですかね。こうした人達こそ第105話のサムライではないでしょうか。今こそこういう人を日本のリーダーに!!

2000421日金曜日修正

19991222日水曜日  第118話  情報構造の欠陥

 久し振りに

経済人の言葉ウオッチ 1999.12.18週刊東洋経済 

石井信平

映像&出版プロデュサー

「長官、この国は既に経済破綻しているのではないですか?」 

 本当のことを知っているのはごく一部の人であること、それがこの国や社会のヒエラルキーを成立させている。
 社長と相談役の密談にはじまり、役員会も、部課長会議も、その全貌をヒラは知らない、知りたいから忠誠が生まれ、上の者はパワーを発揮できる。
 ネットワークによる横型組織や情報公開が一向にはかどらない理由には、「縦型の意思決定を好む」カルチャーや国民性がある。私たちは知らずに任せていることを、日々選択している。
 戦時下、サイパンを「絶対国防圏」と呼びながら、陥落の事実を隠し「戦局の転進」の言葉で言いくるめ、大敗北のカタストローフに突き進んだ過去がある。私たちはその情報構造の欠陥を克服しただろうか?
 12月5日のテレビ朝日「サンデープロジェクト」で堺屋太一経済企画庁長官が「10兆円補正予算は、安心のための見せ金」と発言したのにはびっくりした。担当閣僚と経済評論家の、両方が顔を出した一瞬だった。
 「景気対策、雇用対策のカネはちゃんと用意してあります。全部使っちゃうわけじゃありません」という意味の「見せ金」だそうだ。いずれにしても、物は言いようである。彼は「作家」でもある。
 上と下の情報ギャップを利用した、言葉の言いようでコトが運び、コトが決まる。そのことの恐ろしさに人はもっと気づくべきだろう。だから私たちは不断の「問い」を発し続けるべきだ。その問いは、どんな愚問であろうと価値がある。上の者は答える義務から逃げられない。
 大東亜戦争の終結は、「国体護持」のお題目で遅れ、数百万の国民の命が犠牲になった。政府・金融当局が今やっていることはそれに似た、自分たちのメンツのための時間稼ぎではないのか?
 私が問いたいのは次の質問である。「長官、既に日本国は経済破綻しているのではないですか?」

 相変らず痛烈ですね。こう言いたいのも分りますね。あの小渕内閣のやってることは、この日本の先行きを考えるのでなく、小手先の誤魔化しであって、今までのやり方と何も変わっていない。自分の事しか考えてない。それこそ12月19日の「サンデープロジェクト」で田中真紀子さんが言ってた、「誰も責任をとろうとしない内閣」である。責任感が全くないから、のらりくらりと問題を先送りするだけである所詮こんな奴等を選んだのは、我々である。せめて田中真紀子さんぐらいはっきりしてほしい。彼女が今の政治家の中では一番まともかもしれない。
 ああ!!中坊さんがダメなら次の総理は田中真紀子さんか……!

19991223日木曜日  第119話  ビジネス封建主義

 続いて、

経済人の言葉ウオッチ 1999.12.25週刊東洋経済 

石井信平

映像&出版プロデュサー

ビジネス封建主義
ウォルフレン氏が突きつける問い

 日本の銀行は「民間企業」なのだろうか?護送船団に守られ、六十兆円の公的資金の保証を受けている会社を、資金繰りに万策尽きて自殺を考える「見捨てられた民間企業」と一緒にはできない。
 日本の民間放送局は、本当に「民間企業」なのだろうか?
 視聴率競争という見せかけのゲームに明け暮れ、割り当てられた免許で独占営業を続け、市場や国際基準とは無縁で、不祥事があれば郵政省に呼ばれて行政指導を受ける。この種の企業が「民間」を名乗ることのウソっぽさが気になっていたところ、「そもそも日本に゛民間
"なんてあるのかい?」という本質的な問いに出くわした。
 カレル・ヴァン・ウォルフレン氏の最新刊『怒れ!日本の中流階級』(毎日新聞社)は、薄手のアジ演説ふうな書名が気になるが、中身は、日本の中産階級が置かれた政治経済的的・歴史的立場を鮮明にえぐり出した物議の書だ。前著『人間を幸福にしない日本というシステム』同様、エリート層には相当ヘビーなボディーブローである。
 産業のほとんどが通産・大蔵の指導や調整下におかれ、中小企業は大企業の下請けまたは補完物である日本の現状。加えて、戦時経済そのままの構造を引きずった金融・税制が社会をあまねく支配している。一体この国では公私の明確な区別が、どこでつけられているのか?
 次の言葉が胸を突く。「日本には、公の領域から独立した民間が実質的に存在しない。今日の状況は要するに、昔からの政治体制がエレクトロニクス時代にそのまま再現された『ビジネス封建主義』なのである」。
 日本人への友情をこめ、だからこそ本質を突くこういう議論に対して、「反日的言論」とおとしめる攘夷ムードの時勢がある。
 日本に民間企業はあるのか?この問いに正面から答えられる民間企業の社長さんはいらっしゃいませんか?

 これは面白い。この本は読んでみたい。やはりこの国はおかしいと思ってる人は、内外問わず沢山居るようである。それなのになぜ少しも良くならないのだろう。これは一人ひとりが、現状を変えることをあきらめ「マァいいか!」と権利を放棄しているためではないだろうか。
 やはり中坊さんの言うように一人ひとりが自覚を持って、
「国民主権」の実現を目指さない限りどうしようもないような気がする。

 第116話の「国民一人ひとりの自立あるいは国民主権が定着せずに相変らず「お上頼み」であるという、わが国全体の大きな問題の一部が露呈しているのにすぎません」という言葉を噛締める必要がある。

19991224日金曜日  第120話  商人

  昔から、商売は損して得取れと言われますが、今の商売にはそんな余裕が無いような気がします。
 取引の中にはどうしても採算の合わないことが分かる取引があります。そんな時、よく言われるのが、「今回は、泣いてくれ、その代わり次回は儲けさせる」というのがあります。長い取引相手に対しては飲まざるを得ないこともあります。又、それが相手に恩を売るということにもなり、その後の取引をスムーズにするということだと思います。どちらかといえば、日本的取引方法でしょう。こんなやり方は多分欧米にはないのだろうと思います。
 欧米の契約社会では、そんな悠長な取引は無いと思われます。それでは、こんな取引方法は良いのでしょうか?
 私としては、そんな日本的取引が好きなのですが、近頃は、世知辛くなって自分の所さえ儲かれば相手はどうなってもいいというような気分があるような気がします。
 例えば、次回は儲けさせると言いながら、次回もより安いところと契約することもままあります。逆に、長い付き合いの所から、今回は何とか頼むと言われても、飲まずに取引を止めてしまうこともあります。それだけ情勢が厳しくなってきていると言えるのでしょうが、寂しい面があるのも確かです。
 結局、取引にもそれだけ余裕がなくなっているのでしょう。
 

 そんな、商人の気概のような言葉が、『 「後は野となれ」1999.12.25週刊東洋経済』に取り上げられています。

 ……略
 商人は自分が利益するために決して取引先商人の……貧乏になることを願わない。……彼の富み栄ゆるは、やがて我の利益であることを知っておる」。 (小鹿)

 これは考えさせられる。「商人は自分が利益するために決して取引先商人の……貧乏になることを願わない。……彼の富み栄ゆるは、やがて我の利益であることを知っておる」。この言葉は、恥ずかしながら知りませんでしたが石橋湛山の言葉だそうです。
 しかし、何時も感じていた、値段と言う問題に一つの答えを与えてくれたような気がします。机上の空論だけで値段を上げることについて以前触れたが、例えばゼネコン等の談合もこの心を忘れたものだろう。
 税金即ち、それを納めている国民を貧乏にしてしまっている。だから国が富み栄えない。今の日本は自分さえ良ければの商人像ばかりなような気がします。
 石橋湛山という人はこんな言葉まで残していたのだ。

2000420日木曜日修正

19991225日土曜日  第121話  ワークシェアリング

 日本では、何かの商品が当って売れるとすぐに量産することを考えますが、ヨーロッパでは量産すると品質が落ちるから今のままで良いという事になるようです。こういう考えが根底にあるのがヨーロッパの社会というのを読んだ事があります。というのは、日本のように大企業こそ正義という考えでなく、いたずらに大きくなることを求めず零細企業で満足する。ドイツのマイスター制度などもその一つであるかもしれない。
 それは、大きくなることは他人の仕事を奪うことになるというのである。自分の家族が最低限食べて行ければ良いじゃないかそれ以上を求めることは、誰かを犠牲にすることである。企業が大きくなろうとするとそれは他人の市場を奪うことである。そこまでする必要があるのかという考え方である。今、イタリアのそんなファション関係や家具、デザイン等の小さな企業が元気であるという記事も見たことがある。

 そんなことを考えさせられる事が、同じく、25日の週刊東洋経済の「アウトルック ワークシェアリング 人員削減を強行せず 人心・社会の安定を 間短縮・賃下げによる雇用維持を」にありました。

 ではどうすればいいのか。ワークシェアリング(仕事・雇用の分かち合い)というやり方をもっと導入すべきではないか。雇用は維持するが、企業の事業規模の減少に合わせて、仕事量(労働時間)や賃金も減らすというものだ。……中略
  (論説委員 湯浅誠)

 最近時々見かけるこのワークシェアリングという考え方は、今の日本の自分さえ良ければという風潮とは全く正反対の考え方である。この考えを始めて目にした時、「ああ!こんな考え方もあるんだ!」と目を覚まされたような気がしました。自分さえ良ければ、他人より少しでも良い待遇を、という考えにやはり犯されている私には思いつかないことでした。
 能力に応じた待遇、公平な人事ということばかり考えている私には、仕事を分けると言う発想は新鮮でした。この考えは欧米、特にアメリカの職種別労働組合と日本の企業別労働組合の違いにも現れているのかもしれない。良く触れられているようにアメリカでは単能工という考えが主体であり、一人の人間は一つの仕事しかしない。それに比べて日本は一人が沢山の仕事をこなす。そしてそれこそが日本の優秀さであると思っていた。
 ところがこういうワークシェアリングという考え方を知ると、あながちアメリカの職種別の考えというのも非難されるばかりでもないのかなと考えさせられます。表面に現れた、非効率を非難していましたが、その奥にこんな他人を思いやる心があるとすれば「考え直す必要もあるのかな」と思ってしまいます。
  社会の発展という視点から言うとすべて受け入れることはできないかもしれないが、物
()や効率こそすべてで、心を置き忘れた日本人に対する警鐘かもしれない。

クリスマスに仕事のプレゼントの話でした。

2000417日月曜日修正

19991226日日曜日  第122話  イタリア式

 今、心配なのは伝統や文化だけでなく心まで日本人は捨ててしまったのではないだろうかということである。
 最近の殺伐とした事件も効率だけを追及した社会からはじき出された病める人が起こしているのではないだろうか。それは即ち、犯人は当然悪いが、その裏には反省すべき社会があるような気がする。何でも、効率、効率の世界がそこにはあります。
 効率一辺倒の余裕のない人生はむなしいと思いませんか。

 そんな、効率至上主義とは一線を画した行き方に触れた記事に、何と!昨日書いたイタリア企業の事に触れた中に偶然見つけました。偶然とは怖いですね。

 「財界 新春特別号 2000 1/18より 一筆入魂 ジャーナリスト 嶌 信彦 イタリア式日本革命はいかが」にありました。

   そんなイタリア式をみていると、日本の中小企業や伝統産業も、やり方次第でいくらでも世界に打ってでられるのではないかと思う。…中略 ところが、現場へ行くと「後継者がいなくて……」とか「技術には自信があるけど、需要先がみつからない」「伝統的な着物や織物に現代人は興味を示してくれない」――と嘆く声が目立つ。…以下略
 

 これこそが、日本の戦後教育のツケではないだろうか。世界に追いつき追い越せのために政府がとった企業に都合の良い人材育成のツケがここにきて出てきたということだ。効率や企業への人集めのために農業や、伝統工芸のようなものは見捨てられてきた。
 コツコツと何十年も、親方について技術を学び、ぬすみとっていくというような気が遠くなるような、伝統の世界は、今で言う、きつい、汚い、危険の3
Kの世界である。そんな辛気臭い職業につくより、手っ取り早いサラリーマンの世界の方へ行ってしまうのが現代人である。
 こうやって、誰も後を継ぐものがいなくなり、一つひとつ手をかけて作られるものの良さは、大量生産に追いやられていったのだ。
 本当の技術というものは一朝一夕では出来ない。そのためには、子供のときから本当の良い物を鑑賞することによって本物を見る目を養うことも必要である。そうすることによってはじめて本物の見分けがつくのです。それを捨ててきたのだから今から取り返すことは至難の技であろう。
 即ち、本文で触れられていた「
人生の楽しみまで犠牲にしてカネもうけに走ろうとはしないライフスタイルが根付いている」と正反対の人生観を持った人間を育ててしまったということである。
 確かに、そのお陰で日本の国は大きく発展したが、あまりにも捨ててきたものが大きかったのかもしれない。
 よく「世界の中で日本人ほど伝統とか文化というものを平気で捨てる人種はいない」と言われていると聞くが、その悪い面が現れてしまったのが現状なのだろう。

2000421日金曜日修正

19991227日月曜日  第123話  顧客第一

 企業とは何でしょうか。商品やサービスを、それに見合った代価で提供することにより適正な利益を得、それによって、永久的に活動を続けて行くことを目的としているのだろうと思います。
 ところが、見合った代価以上の価格で提供し、暴利をむさぼるという事が往々にしてあります。それは、独占企業や談合によって行われることが多いのですが、そんなことが通用するのでしょうか?
 何時かは、顧客の知るところとなり、しっぺ返しを食らうことになるのではないでしょうか。ところが、最近でこそ、顧客第一主義が言われていますが、本音は企業第一主義が殆どではないでしょうか。儲けられるだけ儲けようという考えが根底にあるように思います。
 だから、バブルの銀行のようなことが行われたのでしょう。まだまだ、あわよくば、顧客を騙して、少しでも多く儲けてやろうという企業が多いように思います。
 

 そんな企業経営の本質について面白いのが、日経産業新聞 1999年(平成11年)12月24日(金曜日) 中小企業経営 マネジメント講座 中小企業の事業チャンス 4 「顧客第一」が不変の本質』にありました。

 ……略

 結果的に顧客が望む商品、サービスを適性価格で提供できなければ企業の存続は望むべきもない。……中略 (小宮コンサルタンツ代表 小宮 一慶)

 これは四回にわたった記事の最後のものであるが、顧客満足なくして商売は成り立たないことをズバリ指摘しているので取り上げました。中小企業経営となっていますが、この基本は大企業であろうとも全く同じはずである。
 ところがこの基本、「
自社の都合で提供される商品・サービスなどは顧客は望まない。」を忘れて自社の都合だけで経営されている企業の何と多いことだろう。
 「
多くの企業が顧客第一主義をお題目のように唱えるが」と言われるように、表面上はそう唱えているが、中身は全く自社の都合だけである。要するに顧客の方に顔が向いてないのである。社内のそれも上のほうだけを見て仕事をしているのである。そこには顧客は微塵もない。
 こんな会社が生き残れることが不思議であるが、それが分らない経営者がいるはずはないと思うが、取り巻きによって間違った情報しか上がらず、本当の姿が見えていないのでしょう。

2000421日金曜日修正

19991228日火曜日  第124話  エキスパート

  人間の価値とか、能力って何でしょうか?そんなに能力の差と言うのはあるのでしょうか?分野を区切れば、その中での差は当然あるでしょうが、それが人間の差では無い筈です。
 ところが、今、社会は、単なる仕事の範囲での能力の差しか価値を認めていないような気がします。それどころか、その中に情実が入りますから、益々人間の能力とはかけ離れてしまいます。そんなことが人の一生を決めてしまうのですから、本当に怖いと思います。
 人は、それぞれに良い所も、悪い所も持っているはずです。すべてが良い人や悪い人なんていないと思います。そうした、その人、その人の持つ良い所を活かせる社会が皆がそれなりに満足できる良い社会と思います。しかしながら、幾らなんでもそんな社会はまず無理でしょう。
 しかし、そうした考えを基本において少しでも個人の能力を活かそうとするかしないかで、その結果は大きく違ってくるように思います。

 そんなことを考えさせてくれる興味深い本を見つけました。藤沢武夫さんと言ってもどんな作家だったかな?と思われる方もいるとおもいます。知る人ぞ知る、あの有名な本田宗一郎さんと一緒にホンダを育て上げた方です。本田宗一郎さんの本は沢山あり、私もかなり読みましたが、そのパートナ―として有名なこの方の本は始めてです。時間つぶしの本屋さんで偶然みつけました。

 

 面白い所が沢山ありましたが、特に組織に関して素晴らしい考えが、「経営に終わりはない 藤沢武夫 文芸春秋 六、模索と学習の日々 エキスパートを陽の当る場所に」にありました。

 ……略

 もしも既存の大企業に、本田なり私なりが入っていたいたとしたら、どうなったでしょうか。私たちには学歴がない。自分で培ってきた技術と経験があるだけです。大企業に入っていれば、こういう人間はおそらく下積みで一生をすごしたことでしょう。…中略

仕事の履歴書「私の記録」

  そこで日記というものを利用するのがいいのではないかと、私は考えた。……略 けれども、職場で書く日記は、「今日はこういうことを考えて、こういう仕事をした」とか、「ちょっとした思いつきをいったら、改善に役立った」という内容で、その人の仕事の履歴書になるわけです。…以下略

 この「私の記録」というのは、中々面白いですね。黙って黙々と働き、力は持っているが、世渡り下手で埋もれている人を活かすための手法としては素晴らしいと思います。得てして、エキスパートといわれるような人は変わり者が多いものです。
 今まで、「
やはり、役に立つ人間は自分のところに置いておきたいから、悪いやつを、というより、班長にとって都合の悪い人を放出するということになる」ということで使いにくいとか好き嫌いで異動させられた人が沢山いたわけだが、そういう人は今までの経験や力を全く発揮できないで、「昨日入ってきた従業員と同じことで、まったっくの素人でしかない」ということになり、全く浮かばれないことになる。会社にとっても折角の力を埋もれさせてしまうのであるから、大きな損失である。そういう人を「つかいものにならないから移されてきたという在来の形が、功績があったから移ってきたということになります」というように活かすことができる。
 これは今もどこの会社でもある、いじめや好き嫌いの人事を防ぐ意味でも重要だと思います。どこにもある、「部下の功績を自分のものにしてしまったものですが」というような、手柄は自分のもの、失敗は部下のものという上司がはびこるのも防げるのではないでしょうか。       こんなことを考え付く藤沢さんという人は素晴らしいですね。こんな経営者が沢山いれば、ばなか上司によって殺された人が大勢活き返るでしょうね、そしてそれは会社を活気付け発展させることになるでしょう。
 会社を伸ばすかどうかは人を活かすかどうかである。

2000422日土曜日修正

19991229日水曜日  第125話  専門職制度

  今まで人事というものがどれほど大事かということをこれほど分っていて、人を生かすにはその人事をどうしたらいいかを真剣に考えた経営者がどれほどいたでしょうか。
 それどころか、従業員を自分の私物のように思っているのではないかというような人が多いくらいです。給料払っているのだから、何をしてもいいと思っているのかもしれません。往々にして、創業者タイプにこういう人が多いようです。よく言われる、「かまどの灰までも俺のもの」という考えです。
 確かに、自分で苦労して起した会社ですから、そういう気持ちになるのも分からないではないですが、それはやはり、他人を思いやる心を忘れているということでしょう。
 たまたま、縁があって勤めているだけであって、経営者の奴隷じゃないのですから。そんな気持ちを持てない経営者の企業は、それ以上発展することはないと思います。
 縁あって、一緒に働くようになったからには、皆が、自分の能力を発揮でき、楽しく仕事できるようになって欲しいものである。
 経営者、管理職、従業員はたまたま、企業を上手く運営する為の役割であるだけで、誰が偉いとか偉くないとではないと思うのです。だから、社長、管理職といえども従業員に対して、感謝の気持ちが必要なはずです。ましてや、地位を笠に着て従業員を虐めるなんてとんでもないことです。
 それがない企業はいずれ行き詰るように思います。その時期とか大きさには差があるかもしれませんが。そうあってほしいという願望の方が大きいですが。

 

 「経営に終わりはない 藤沢武夫 文芸春秋」の中にそんな私の気持ちを代弁してくれるような所があります。この考えに感動して、どうしてもできるだけ取り上げたかったのです。

 「私の記録」は、専門職制度への下準備でもあったのです。…以下略
   

 表舞台に出る管理職と違って、生き方は不器用であるが、エキスパートとして能力をもっていながらえてして報われない人をどう評価するか。素晴らしい考え方ですね。藤沢さん自身本文の中で、「本田宗一郎、藤沢武夫の特長は何かといえば、一言でいって、エキスパートであるということでしょう。面倒見のいい管理者タイプでは決してありません。本能と直感で動きます、こういう人間は、世間一般の組織図で固められた集団のなかでは生きられないのです」と言っているように組織の中で能力を発揮できない者の悩みがよくわかっていたのでしょう。それだけにその人たちをいかに生かすかを。考えたのでしょう

 次の、「本社の人事部長などは、人事を動かす人ではなくて、いわば使い走りです。「私の記録」は人事、給与、能力など、いろいろな面から見るんです。クモの巣の糸のなかの人間であることが重要なんですね。どんな能力を持っている人でも、上役に変な人がいて、その上役だけの評価で判定されると芽が出ないものです。だから、いろいろな方向から見てやることが必要です」というところなんか、涙なくしては読めませんね。こんな経営者の下で働けたらどんなに幸せでしょう。本田宗一郎さんとこの藤沢さんの二人が経営していた会社が伸びない訳がないですね。

 自分の好き嫌いだけで人事を壟断するどこかの人事部長に読ませたいですね。最もそんな人間に限って、自分は藤沢さんに負けないと思っているんでしょうね。

 最後にこの本の中で特に気に入った次の言葉をかいておきます。
 「
万物流転の掟のもとに衰えて行った企業は、そういう人間の使い方をしてなかったからだと思います。極端にいえば、従業員のさまざまな功績を社長が全部とってしまう。そうして、その下にはおべんちゃらのピラミッドができてしまう
 「
おべんちゃらのピラミッド」とは面白いですね!!

2000422日土曜日修正

19991230日木曜日  第126話  知恵をしぼった組織

  企業経営とはなんでしょうか?単純にいえば利益をあげることが第一でしょう。それでは、手段を選ばず、何をやっても利益を上げればいいのでしょうか?
 今でも、そんな会社が存在することは確かですが、そんなことが、今の社会に受け入れられるはずはありません。
 今の時代は、地球環境にまで配慮しなければならないほどなのに、従業員の人生にさえ配慮されていないのが現実でしょう。
 確かに利益を出せない企業は存在する価値はありませんが、その為に、従業員を犠牲にすることは許されてはいけないと思います。
 それでは、どうやれば従業員を活かし尚且つ利益をあげ、消費者、株主、その上環境にまで貢献できるのでしょうか。
 その為には、やはり、いかに従業員を活かせるかの仕組み(当然、人事を含みますが)を考えることが必要であると思います。それを真剣に考えた企業を余り聞きません。
 ただ旦に、ピラミッド型の組織に人員を当てはめただけの企業が殆どだと思います。そしてそこには人間尊重の考えはなく、思いつきや、好き嫌いの人事がまかり通っているのです。
 そんな中で、自分達の組織と言うことを真剣に考えて実行した人がいるのです。

 組織について『「経営に終わりはない 藤沢武夫 文芸春秋」世界をリードする仕組みを ―昭和40年11月―  知恵をしぼった組織』 の中に、そんな藤沢さんの考えがあります。
  ……略
   一時間でかけるような組織図と、これだけみんなで頭をしぼっても、なお、その結論が得られないようなものと、どちらが価値高いか――これは明らかなことだと思います。

  • 変化に対応する新組織を
     ……略
      ここに、古い組織図と、みんなで検討している組織図との違いが出てくる。


  これはすごいと思います。昭和40年といえば私事で言えば高校二年生のとき、今から35年ぐらい前の事である。そのときにこれだけ新しい組織を一生懸命考えていたのです。未だに、自分で考えることもなく、本文の中で藤沢さんが、「
日本のビラミッド組織というものは、企業のなかから必然的に生まれてきたものではなくて、いわば借り物なんです。その借り物のところに、ただ、課長や係長のところに名前を入て、組織図だということになってしまっている。」と言っている、借り物の組織のままの企業が殆どである事を考えると、その素晴らしさが分かると思います。
 「
つまり、ここ一年や二年の勝負ではなく、五十年、百年というものをリードしてゆける体制をつくって、次の人にバトンを渡してゆく義務をわれわれは持っている。」というように既製のものでなく自分で考えて、本当に自分にあう組織を自分で作り上げていく、これが大切なのではないでしょうか。
 与えられた組織図の中に「ただ、課長や係長のところに名前を入て、」つくった組織は魂がありません。それは社会全体が右肩上がりのときにはなんとかごまかしてこれたが、今のように成長が難しい時代には邪魔になるだけで、成長なんてとんでもないことになっています。そこには一人ひとりの人間をどう活かすかという、視線がなく只、管理のためだけの考えしかないからではないでしょうか。
 人間は上からの管理だけでは持てる能力を発揮する事は無理ではないでしょうか、やはり自分の頭で考え工夫することによる自己実現の満足がなけば持てる力の全てを出さないのではないでしょうか
 それを作ろうとした藤沢さんはすごい。未だに古い考えのまま、その上、そこに好き嫌いの人事しかやらない企業のなんと多い事か。そんな企業が生き残れる事はないだろう。

 2000422日土曜日修正

19991231日金曜日  第127話  エキスパート

  どうやったら本当に人を活かせるのでしょうか?たった一度の人生を、生活の為に毎日いやいや働く企業の奴隷(そのうえ社畜なんてのもあります)で終わるなんて余りにも勿体無い。
 同じ勤めるのなら、自分を活かしてくれ、楽しく働ける企業に勤めたいものである。そんな企業が、日本にあるのでしょうか?殆ど無いのが現実でしょう。
 それは、今までの日本の価値観そのままに、会社に都合のいいように個性を殺すことを良しとする企業ばかりだからでしょう。大きいだけで良いとされる大企業崇拝もそこにはあるでしょう。
 長いものには巻かれろの昔からの価値観しか持たない企業ではなく、自分の個性を自由に発揮させてくれる、今までの日本とは違った企業は無いのでしょうか?
 何時までもこんなことをやっていたら日本は世界から取り残されるでしょう。

 その中でも人を活かすことを考えてきたのが、『「経営に終わりはない 藤沢武夫 文芸春秋」 世界に通用するエキスパート』の中の藤沢さんかもしれません。

 いままで、どこの企業でも、人間の個性というものが十分に発揮できないような仕組みでやってきている。だから組織を変えても、長を入れ代えても、ちっとも変わりばえしないんです。

 この考え方はやはり素晴らしいと思います。今までは「長」がつけば、バカでもチョンでも偉いとし、自分でもそうだと勘違いする人が地位をかさにきて間違った指示をしてもそれが通っていった。それが、「問題が発生したときには、必ずしも、それにくわしいわけでなくても、とにかく集まった。しかし、こんな場当たりでは企業は伸びっこないんです」ということである。
 そして、「
こんなとき、エキスパートが、各部門から集まって会議を開けば、この会議のレベルは高くなり、その会議の結果が、こんどは、「長」を通して、仕事として、運営されていく――これが「長」とエキスパートのあり方だと私は思うんです」というのは、新鮮で素晴らしい考えだと思います。
 これが今までの組織にはなかったことです。これなら、少々バカな管理職がいても大きな間違いは起きないでしょうし、現場の士気もあがるのではないでしょうか。現場のわからない管理職とか本社の机上の空論がまかり通る事もなくなるのではないでしょうか。
 今これだけの組織のある会社が果たして日本にどのくらいあるでしょうか、殆どないと思います。そしてそれが、「
いままで、どこの企業でも、人間の個性というものが十分に発揮できないような仕組みでやってきている。だから組織を変えても、長を入れ代えても、ちっとも変わりばえしないんです」という企業が未だに殆どである事の証拠ではないでしょうか。
 35年前に藤沢さんが考え望んだ「
アメリカにも、ドイツにもない日本のなかにもない仕組みを、ひとつ、みんなの力でつくっていっていただきたいものです」という事が今年も実現されなかった事を思いながら、今年最後の団塊の部屋としたいと思います。

それでは良いお年を!! 

2000422日土曜日修正

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